※実話です。先輩、今でも根に持ってます。
料理の世界には、タイミングというものがある。
何分後に出す、何番テーブルを先に、どの皿と同時に。厨房はすべてがその「タイミング」で動いている。
そしてそのタイミングを間違えると、怒号が飛ぶ。
あの日、私は確認した。
提供タイミングを読みながら、先輩の田中さんに聞いた。
「これ、出していいですか」
田中さんはこちらを見て、うなずいた。
明確に、うなずいた。
(あれはどう見てもGOサインだった。宇宙に誓ってもいい)
私は皿を持った。テーブルに向かった。
「待てぇぇぇぇ。」
料理長の声が、店内に響いた。
お客様のいる店内に、響いた。
BGMのジャズが一瞬負けた。
(ジャズが負けるってどういう音量なんですか)
シェフの中では、まだだった。
料理の温度、前の皿との間隔、テーブルの会話のリズム。シェフの頭には私には見えていない何かがあった。
でも私にはGOサインがあった。
田中さんのGOサインが。
怒号が収まった後、田中さんが近づいてきた。
小声だった。
「ごめんな」
それだけだった。
(ごめんなじゃないですよ)
でも田中さんの目は、料理長の方を見ていなかった。
完全に「自分は関係ない」という顔をしていた。
壁に同化しようとしていた。
人間が壁になろうとしていた。
(なれてないですよ)
数日後、口コミを見ていたら、こんな投稿を見つけた。
「料理はとても美味しかったです。ただ、食事直前に厨房から大きな怒号が聞こえてきて、この料理に一体何があったのだろうと少し心配になりました」
星4つだった。
1つ、怒号で削られていた。
(私が削ったのか)
(いや、GOサイン出したのは田中さんだ)
今でもその口コミは残っている。
「料理に何があったのだろう」
答えを言うと、GOサインの出し惜しみです。
何もなかった。料理は何も悪くない。
悪いのは田中さんのうなずきだ。
田中さんは今でも演歌バーを経営している。
繁盛しているらしい。
シェフのターゲットにならないムーブで培った処世術が、飲食業に活きているんだと思う。
(あなたが壁になっているのを、私はずっと見ていた)
タイミングを確認する時は、自分の目でシェフを見る。
先輩には、聞かない。

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