うちのシェフは、毎日営業直前に来た。
毎日だ。1回や2回じゃない。毎日だ。
開店15分前になると、厨房に独特の空気が流れる。誰かが「そろそろです」と小声で言う。それだけで全員がシャキッとする。軍隊か。ここは軍隊か。
ドアが開くと、まず影が差す。次に気配が来る。そして100キロが来る。
私はその日、タイミング最悪の人間だった。
—
パテ用にマリネしたレバーがあった。
前日から赤ワインとハーブで仕込んだやつで、バットにぎりぎりまで入っていた。液体が多かった。重かった。持ちにくかった。
その3つが揃ったとき、人は失敗する。これは法則だ。
ドアが開いた。
私の手も開いた。
—
レバーは、飛んだ。
なんで飛ぶんだよという感じで飛んだ。こんなに飛ぶんだという感じで飛んだ。マリネ液が先に広がって、固形物があとからついていった。入口のタイルがレバー色に染まるのを、私はリアルタイムで目撃した。
当事者なのに目撃した。
シェフが来た。100キロが、入口に立った。
私は、レバーの向こうに立っていた。
—
見たことあるか。100キロの潔癖症が、レバーまみれの入口を無言で見つめている光景を。
私は見た。リアルタイムで見た。
シェフは動かなかった。5秒。10秒。
永遠みたいに感じた。いや、永遠だった。物理的に時間が止まった。周りの音が消えた。私の心拍数だけが聞こえた。どくどくどくどく。
シェフが、口を開いた。
「…汚い」
自分は何もしてないのに「汚い」と言った。
正論だった。
—
怒られなかった。
その日も、翌日も、翌々日も。何も言われなかった。
これが一番きつい。人間、怒られた方がずっと楽だ。沈黙は心を蝕む。じわじわ蝕む。三日間、私はレバーの夢を見た。飛ぶレバーの夢を。
三日後、シェフが言った。
「レバー、仕込んどいて」
同じやつだ。パテ用のマリネレバー。バットいっぱい。
あれは罰だったのか。信頼だったのか。
今でもわからない。
ただ、その日から私はレバーのバットを両手で持つようにしている。あと、ドアの前では必ず一回止まる。
人間、学ぶ。
レバーで学ぶ。
あの日のレバーはパテになり、赤ワインと一緒にお客さんのテーブルに出た。ビストロの料理にワインを合わせる話は、こちらで。


コメント