まず前提として、料理人の手は荒れる。
めちゃくちゃ荒れる。
水、熱、塩、何もかもが手を攻撃してくる。
冬なんて特にひどくて、ベテランになればなるほど手がバキバキになっていく。
谷口さんはその最前線にいた。
ポケットにハンドクリームを常備してるんですよ、谷口さん。
仕事の合間にこっそり塗ってる。
「ああ、料理人ってこうなっていくのか」と、1年目の僕はなんとなく怖くなった。
いや、その話じゃないんですけど。
ある日のディナー後。
片付けが終わって、ホールの電気が消えた。
僕は忘れ物を取りに、暗いホールの奥へと歩いていった。
袋小路。
そこに、谷口さんがいた。
そして。
栗原さんが、谷口さんの手にハンドクリームを塗っていた。
待って。
ちょっと待って。
電気消えてるんですよ?ホールの一番奥の袋小路ですよ?
なんでその場所で?なんでその状況で?
そもそも栗原さんは谷口さんのハンドクリームを持ってきたの?なんで?
疑問が多すぎて頭がついていかない中、谷口さんと目が合った。
その目が言っていた。
「頼む。助けてくれ。」
僕は、目をそらした。
忘れ物は翌日でよかった。
うん、絶対翌日でよかった。
聞いてほしいんですけど、これ僕が悪いわけじゃないと思うんですよ。
だってどうするんですか。
「やめなさい!」って言う?言えないでしょ。
「谷口さん大丈夫ですか」って割り込む?どう考えても空気が終わるでしょ。
かといって無視して忘れ物を取るのも違うでしょ。
選択肢が全部ダメなんですよ。
だから逃げた。
これは正解。むしろ正解だと思ってる。今でも。
料理の世界にはいろんな先輩がいる。
技術を教えてくれる先輩。
怒鳴ることしかできない先輩。
電気の消えたホールの袋小路で後輩の手にハンドクリームを塗る先輩。
最後の先輩だけは、何を学べばいいのか今も分からない。
あの夜の谷口さんの目だけは、一生忘れないと思う。


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