夏に電車に乗ると、車両ごとに湿度が違うことがある。
入った瞬間に「この車両、なんか蒸すな」と思って見回すと、大体原因がいる。汗っかきな人が一人いるだけで、車両全体の空気が変わる。不思議なことに、その人と目が合うと申し訳なさそうな顔をされるので、こちらも申し訳ない顔をしてしまう。誰も悪くないのに。
これが私の熊田さんの話だ。
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次の職場に移って最初に気づいたのは、厨房の空気がたまに重くなるということだった。
原因は熊田さんだった。
熊田さんは、100キロあった。厨房の中で熊田さんがいる方向は、なんとなくわかった。視覚より先に、別の感覚が教えてくれた。
匂いが、した。
悪臭というより、存在感だった。熊田さんが動くと空気が少し入れ替わる感じがする。入れ替わった空気は、入れ替わる前より少し重かった。
でも本当にヤバいのは、熊田さんが喋り始めたときだった。
熊田さんは料理の話になると止まらなかった。声量も大きいので、止まらないのがよく聞こえる。そして喋るたびに、少し蒸した。
100キロの体が発する熱と、料理講義と、匂いが同時に来る。体重・声量・気配のすべてが2倍の人間が半径1メートルで喋っている状況を、私は「詰み」と呼ぶことにした。
ランチのピーク中、熊田さんの隣でプレートを仕上げていたとき、気づいたら前髪が濡れていた。自分の汗か熊田さんの何かかわからなかった。もうどっちでもよかった。
でも本当にヤバいのは、営業後だった。
ランチが終わって、換気扇が止まる。その瞬間から、熊田さんが3時間かけて放出したすべてのものが、厨房に残り始める。
ドラゴンボールでいうと、強い敵が現れたとき画面全体が「ざわ…ざわ…」ってなるやつ。あれが嗅覚で来る。講義がセットで来ない分、純粋に匂いだけが漂っている。情報量は減っているのに、なぜか状況が悪化している。
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でも熊田さんは、料理が好きだった。
メイラード反応がどうとか、ブイヨンの可能性がどうとか、正直半分も聞いていなかったけれど、あの熱量だけは本物だった。
夏の電車で、蒸している車両に乗るたびに、今でも熊田さんを思い出す。
あの湿度は、料理への愛だった。
受け取る器官が、ちょっと違っただけで。
あの厨房で毎晩ワインを仕込みながら、私は少しずつペアリングを覚えていった。夏の厨房で汗をかきながら冷やしていたワインの話は、こちらで。


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