ソース、見てたか。

シェフの日常

※登場人物と事件以外は私の妄想です。


厨房というのは、地獄である。

いや、地獄に失礼かもしれない。地獄には閻魔大王という公正なジャッジがいる。厨房にいるのは料理長だ。あの人、公正じゃない。完全に感情で動いている。

(ていうか閻魔大王に謝りたい)


私が入ったのは都内のフレンチレストランだった。

ピカピカの白いコック服。夢。希望。パリ。シャンゼリゼ。頭の中はそんな感じだった。

現実はフォン・ド・ヴォーを12時間煮込みながら、先輩の鼻歌を聞くことだった。


先輩、田中さんというのがいた。

この人がとにかく個性的で、仕事中にずっと演歌を口ずさんでいる。しかも演歌のチョイスが毎回渋い。細川たかし、北島三郎、ときどき都はるみ。

「田中さん、なんで演歌なんですか」と聞いたら、

「フレンチと演歌は魂が一緒や」

と言われた。

(全然わからん)

でも田中さんの料理は本当に美味しかった。演歌を聴かせながら作ったソースが、なんかビブラートかかってるみたいに深かった。意味わからん現象だった。


料理長は別格だった。

身長180センチ。声がデカい。目が鋭い。立ってるだけでブラックホール。周囲の空気を全部吸い込んでいく。

「ソース、見てたか。」

これが口癖だった。何かを焦がすたびに、何かを失敗するたびに、「ソース、見てたか。」と言われる。初日に言われた。3日目にも言われた。1ヶ月後にも言われた。

(ずっと見てましたよ!!でも焦げるんですよ!!)


最大の事件は入社3ヶ月目に起きた。

ランチのピーク。テーブル満席。オーダー14件。田中さんが演歌の最高潮でビブラートをかましている最中に、私はやった。

魚のポワレに、デザート用のキャラメルソースをかけた。

間違えた。完全に間違えた。鯛がキャラメルになった。スイーツ系フレンチでもない。ただの事故だった。

シーンとなった。

田中さんの演歌が止まった。都はるみが止まった。

料理長がゆっくりこちらを向いた。

「ソース、見てたか。」

(見てたんだよ!!でも見間違えたんだよ!!!)


そのあと私は15分説教された。

でも不思議なことに、料理長は途中からずっとキャラメル鯛の話をしていた。「甘みと魚は理論上成立する」「ブルターニュの漁師料理にもそういうのがある」「お前は天才か、馬鹿か」。

(どっちですか、答えてください)

田中さんはその間ずっと壁際で北島三郎を口ずさんでいた。

「まつり」だった。

なんかお祭りになってた。


あれから何年も経った。

私は今でも時々、キャラメルソースを見ると鯛の顔が浮かぶ。

料理長は相変わらず「ソース、見てたか」と言っている。田中さんはこの間、ステージ付きの演歌バーを開いた。フレンチのシェフが演歌バーを開いた。

意味がわからない。

でもお店は繁盛しているらしい。

(フレンチと演歌は魂が一緒、か)


厨房は地獄だった。でも地獄にしか生えない花がある、と誰かが言った気がする。

誰だっけ。

まあいい。

今日もソースを見ている。


※登場人物と事件以外は私の妄想です。田中さん、もし読んでたらごめんなさい。料理長、読まないでください。


あの日の婚礼で、もしソースが完璧だったとして、ワインはどう選んでいただろう。特別な席のワインを選ぶのは、ソースを仕込むより難しい。

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